私の名刺の肩書きは、「家具デザイナー・インテリアライター」です。
あるとき、自分でそう決めました。
でも実際は、イデーを辞めてから家具は出せていません。だから「家具デザイナー」ではないのかもしれません。
自分がお母さんをやっていて、「ないから作ったもの」が、評価されています。もしかしたら、「お母さんデザイナー」と肩書きを変えた方がウケるのかもしれません。
でも、私は「お母さん100%」でデザインをしているわけではありません。
お母さん業務の隙間時間に、得意な文章で好きなインテリアのことを書いている。だけど字数を守ったり、気の利いた&SEO対策もバッチリのコピーライティング書いたりするのが苦手です。だから「インテリアライター」でもないのかもしれません。
名刺にない肩書きのところで、日々の時間の大半は過ごしています。名刺にない肩書きってのは、「妻、嫁、母、主婦」あたりでしょうか。知人限定でインテリアコーディネートや、ディベロッパーさんの間取りコンサルなんかもやってます。
家で通常業務(ご飯のお買い物&作る&片付ける、洗濯、掃除、学校・塾・部活・習い事等のこまかな雑務、お金回りの雑務)をしていれば、なにかと想定外の業務(買い物先で仲のいいママ友と久しぶりに会ったり、想定外に大きな荷物が届いたり、近所の方がなにか持って来て下さったり、義母さんから「取りに来て」CALLがかかってきたり、怪我や病気のお迎えCALLがかかってきたり、家族のだれかが重病になったり、死んだり)で、名刺の肩書き業務の段取りは、いとも簡単に優先順位の低いところへと押しやられるわけです。自分で望んでそうしているものはいいとして、そうでないものは無性に腹が立つ時もあります。じっくり模型に取り組んだり、知見を広める為に遠くに出かけたりしたい、というのは「ワガママ」なのでしょうか? それについては、「人生はそのときその時のタイミング」とお茶の先生の言葉を信じて、自分を納得させています。
今のところ、想定外がいくつ重なっても大丈夫なように、どんどん前倒しで進めて行く。というのが、私なりの「名刺の肩書き業務」のやり方です。自分の得意なことを、誰かから信頼されて任される喜びは他のなににも替えられません。その「締め切りを守ること」や、「〆切ないけど結果出すこと」で、その信頼に応えることが楽しいわけです。
一方、通常業務と想定外業務から学ぶことは、メーカーにいては見えない「リアルなニーズ」や、「リアルな疑問」。暮しって日々想定外のことが悲喜こもごも押し寄せるわけで、自宅のインテリアや家具というのは、どんな時にでも「帰ってきて、ホっとする場所」になるわけです。
実際、どんなインテリアだったとしても、ちょっとした旅先から帰ってくると、一瞬はホッとします。それが、自分が主体的に掃除を通常業務として担っていない人であれば、どんなに散らかっていても気にならないでしょう。でも、その担っていない人にとっての「生活」の感度って、どれほどのもんなのでしょうか?健康上の理由や何らかの原因で仕事できない時、どうするんだろう?
日々の雑多な暮しからだけの発想では世知辛いし、おしつけの「理想の家族像」や「丁寧な暮し像」からだけの発想では息苦しいのです。
少し話は変わるのですが、先日我が家に新しい調律師がピアノの状態を見に来てくれました。今までお願いしていた人の方が、前日に確認の電話をくれるし、日中に知らない男性と二人きりになるわけですから、知っている人の方が正直気楽です。でも、次回からはずっと今回の人に頼むことになりそうです。今まではずーっと「うちのピアノはかたい。弾くと疲れる、高音がたるんでいる」と文句ばかりだったのに。
息子は「音が引き締まった。全然ちがう」と喜んで弾いています。
・・・なにが違うのでしょうか?
いままでの調律師の方は「弾かない人」でした。今回の調律師の方はピアノを「弾く人」で、音を確かめる際にも、きれいなメロディーの破片を弾いては確かめ、ネジをまわしたり、フェルトを挟んだりされていました。その方の音やタッチの響きの好みが、息子の好みとマッチしていたというわけです。
長々となってしまいましたが、何を言いたいかというと、「デザインしたい!自分がデザインできる立場だったらここはコウする」という目で見ると、たまに発見をすることがあります。そのポイントが、デザイナーやメーカーの意図と一致していると心底嬉しいし、伝えたくなります。それが私の一番のモチベーションで、「インテリアライターです」と胸をはって言える根拠でもあります。そして「家具デザイナーです」と、言い続ける根拠でもあります。
発見がないものは私個人的にはツマラナイし、もしかしたら自分の知見が足りないが為に見逃したのかもしれないけれど、その時の私が「判断して」文章を自分の名前で「書く」わけですから。日々勉強をして、感動ポイントの感度をあげていくしかないわけです。感動できないものは書く意味がありません。その時間は生活者の感度をあげるべく、通常業務(母、妻、嫁)を粛々と取り組むほうにあてたほうが皆幸せです。
モノの良さは「作る側の言語」から「生活者側の言語」に翻訳されると初めて伝わることって、実は多々あります。一方で伝える必要がない場合も多々あります。たとえば、値段や機能やスペックや見栄えで選ぶことも間違いではありません。その意味でジェネリックや、模倣品や、雑貨屋に並ぶセンスいいカラーリングで悪くない作りのものを選ぶことを批判するつもりは毛頭ありません。ただ、書かない理由は、さきに述べたのが理由です。
私は「選ぶ自由は生活者(全ての人です)にある」と思っています。
だからこそオリジナルのアイテムしか今後も記事は書きません。
でもそれは、
私が「高級志向の家具アイテムしか書かない」ノットイコールであります。