「子どもの家」と聞いて、どんな空間を思い浮かべますか?
モンテッソーリ教育の幼稚園は「子どもの家」という名前のついたところが多いのですが、現代ではあまりに普通の言葉の組み合わせでしかないので、特に気にも留めない無個性な言葉ですよね?
かつて「子ども」は存在しないかのように扱われていた時代があった
1907年にイタリア・ローマの当時スラム街だったサン・ロレンツォにマリア・モンテッソーリが「「Casa Dei Bambini」(イタリア語で「子どもの家」の意)を開いた頃は、子どもは「小さな大人」として、その一人一人の個性よりも”従順であること”や”労働力として成長する”ことを期待されていました。
小さな子どもは非力で、非力ゆえに仕事の役に立たず、教育を施されないから読み書きもできないまま、その家業を継いでいく以外選択肢がありませんでした。労働者階級の両親が日中働く間、幼い子どもたちは教育を施されることなく放置されていました。現代でいう「ネグレクト状態」ですね。
子どもが自分の意思で自分のしたいことができる空間になっている
「子どもの家」は子どもが主役。
・家具の選び方
「椅子」ひとつとっても、子どものサイズにあったもの、子どもが自分で持ち運びできる軽さのもの。
「机」ひとつとっても、それぞれの高さの「椅子」にあった高さのもの。奥行き浅め、横幅広めのもの。
そして、何より第一に「美しい」こと。
美しさとは”理にかなっている”ということです。
無垢の木を使えば”美しい”という訳ではなく、軽さを重視して成型合板やパイプ椅子も選択肢に入りますし、無垢にこだわるのなら杉や檜などの針葉樹を用いればいい訳です。
環境を整える大人にデザインの知識がなくても大丈夫!
サイズは自分の体で測れる
出かけ先でお子さんが腰掛けた木の切り株や遊具の高さを自分の体を用いて覚えることはできますよね?
重さも常識範囲なら「持ちやすい形状かどうか」で判断できる
お子さんが運べる重さかどうか?1、2歳のころ、米袋や水の入ったバケツなど「重たいものを持ちたがる」時期はありませんでしたか?
子どもは動きながら学ぶので、自分の体のバランスをとる練習のために重たいものを運びたがる時期があります。
手がけがあるものや、スツールのように持ちやすい形状であれば問題ありません。
学びを楽しむ子どもたちがつくる、静かなのに活気のある教室の”雰囲気”
「子どもの家」では、それらの”子どものことを知った上でデザインされた”家具が、子どもの空間把握の特性を知った上で配置されている空間になっています。
子どもたちがバラバラの活動をしていてとても静かなのに活気にあふれている、不思議な風景が広がる理由はそこにあります。
子どもたちは自分自身の体を動かして、自分の意思で思い描いたように動かせる体を作ろうとしているのです。
その様子は、モンテッソーリ教育「子どもの家」では世界共通のことで映画にもなり話題になりました。
予告編だけでも様子がわかるので、ぜひ見てみてください*写真クリックでご覧いただけます。
無知ゆえに愛を与えているつもりで、子どもの自尊心を奪う大人
1歳になれば、その子にあったサイズの机と椅子が必要です。
ダイニングテーブルに子ども用のハイチェアがあるから、大丈夫!?
そこに、お子さんは自分で登って安全に活動できますか?
お子さんがやりたい活動の道具を持って、どうやって椅子を登るか「想像」したことがありますか?
「想像」してみたら、実際いかがでしょうか?
お絵かきをしたい子が、画用紙とクレヨンをもったまま椅子に登れるでしょうか?
ママに「紙とクレヨンをもっていて」もらうことをお願いしなくては、椅子に登れませんよね?
描いてる時に、「シールを貼ってみよう!」ですとか「絵の具も使ってみよう!」とお子さんが思いついたらどうしますか?
なんとかして苦心して椅子をおりるやいなや
「もうお絵かきはおしまい?」
なんて聞いて、まさか抱き上げて降ろしてあげたり、ましてや「上手にかけたねー!」なんて褒めてやしていませんよね?
…えーーー、私はしてました(死にたい)
子どもは大人が思っている以上にプライドが高く、尊厳を傷つけられたことを敏感に感じ取ります。
幼稚園で定期的に行われていた保護者会で、「待つ」ことの大切さと、「子どもが間違いに気がつく工夫」ができるようになる「観察」することの大切さを知ります。
いかがでしたか?
「一言でいうとモンテッソーリ教育って何ですか?」
と聞かれた時にはピース・ボートでモンテッソーリ教育を監修されている深津高子さんの言葉を借りています。
「飢えた人に魚を与えるか、釣り方を教えるか。その後者の教育がモンテッソーリ教育です。」
では、また水曜日に!!!
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